大判例

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名古屋地方裁判所 昭和56年(ヨ)1082号 決定

申請人 金聖秀 外一名

被申請人 愛知県

主文

一  申請人らの本件仮処分申請はいずれも却下する。

二  申請費用は申請人らの負担とする。

理由

一  申請人らの申請の趣旨及び申請の理由、これに対する被申請人の答弁及び主張は別紙記載のとおりである。

二  よつて判断するに、本件疎明資料によると、愛知県教育委員会の教育長は、申請人らから郵送提出にかかる本件選考試験願書を昭和五六年六月二九日各申請人宛に書留郵便で返送し、申請人金は七月六日、申請人李は同月二日これを受取つたこと、右申請人らに対する願書返戻行為は、申請人らの受験申請を拒否し、本件願書を受理しないとの意思を表示しており、受領者においてもその趣旨を理解することが可能のものであつたことが認められる。

すると、右願書返戻行為は単なる事実行為ではなく、願書不受理という準法律行為的行政行為で、願書提出者に試験を受ける機会を失わしめる効果をもたらすものであるから、行政庁の処分に当ると認めるのが相当である。その際教育長が不服申立に関する教示をしなかつたことは、右行政処分性を否定する事由とすることはできない。

そして、申請人らの本件仮処分申請は、本件選考試験を受けるべき地位を仮に定めること、及び右試験を受けることの妨害禁止を求めるもので、右行政処分の効力を否定しこれを直接阻害することを内容とするものであることが明らかであるから、行政事件訴訟法四四条の規定により仮処分は許されないものである。

以上によると、申請人らの本件仮処分申請はいずれも不適法であるから却下することとし、申請費用の負担につき民事訴訟法八九条、九三条一項本文を適用して主文のとおり決定する。

(裁判官 井上孝 棚橋健二 福崎伸一郎)

(別紙)

(申請の趣旨)

一 申請人らが昭和五七年度愛知県公立学校教員採用選考試験(以下、本件選考試験という。)を受けるべき地位にあることを仮に定める。

二 被申請人は、申請人らが別紙記載日時場所において本件選考試験を受けることを妨害してはならない。

との裁判を求める。

(申請の理由)

一 当事者

申請人金聖秀(以下申請人金と称する)は、昭和三二年八月二八日福岡県北九州市にて出生した朝鮮籍を有する者であり、出入国管理令四条一項一六号の二(いわゆる特定在留)の規定により日本国に在留する資格を有する。

愛知県教育委員会は昭和五六年三月三一日付で申請人金に対し中学校教諭一級普通免許状及び高等学校教諭二級普通免許状(いずれも教科は社会)を授与した。

申請人李貴陽(以下申請人李と称する)は、昭和二九年一二月二八日東京都新宿区で出生した韓国国籍を有する者であり、日韓法的地位協定による協定永住取得者である。

同申請人は高等学校教諭二級普通免許状及び中学校教諭一級普通免許状(いずれも教科は外国語≪英語≫)を有する。

被申請人の行政機関である愛知県教育委員会は、昭和五六年五月二五日愛知県広報において、昭和五七年度愛知県公立学校教員採用選考試験の公告をなした。右公告によれば、右選考試験を受験する資格の一として日本の国籍を有することを要件としている。

右選考試験の第一次試験は、本年七月二一日、二二日の両日にわたつて行なわれることとなつている。

なお、愛知県教育委員会は昭和三八年度実施の公立学校教員採用選考試験までは受験資格を日本国籍を有する者に限定していなかつた。昭和三九年度実施の選考試験から受験資格を日本国籍を有する者に制限するようになつた。

二 申請人らが本件選考試験を拒否されるに至つた経緯

申請人金は昭和五一年名古屋市名東区にある私立東邦高等学校を卒業し、一年浪人した後、昭和五二年四月愛知大学法経学部法学科第二部に入学し、昭和五六年三月同大学を卒業した。同人は大学在学中、卒業後は教員になることを志望し、右卒業と同時に前記社会科の教員免許状を取得した。そして、現在は日本福祉大学聴講生となりさらに、養護教諭の資格を取得すべく努力している。

同人は大学在学中であつた昨年六月、昭和五六年度愛知県公立学校教員採用選考試験について、教員免許取得見込で通名の高峰聖秀名義で願書を提出し受験することができた。しかし、同人は、本年度は教員免許を取得できたので、本名の金聖秀で本件選考試験願書受付期間中である昭和五六年六月二三日郵送で本件選考試験願書を愛知県教育委員会に提出した。ところが、同月二四日、愛知県教育委員会は同人に対し電話により愛知県では日本国籍を有する者しか受験できないから願書を返送する旨通知してきた。そして、同人は返送されてきた右願書を受け取つた。

申請人李は昭和四八年三月東京都立武蔵丘高等学校を卒業し、昭和五〇年四月神奈川大学外国語学部英語英文科に入学し、昭和五四年三月同大学を卒業した。同人も大学在学中に将来教員になることを決意し、右卒業と同時に前記英語の教員免許状を取得した。同人は大学卒業後も英語教員となるための実力をつけようと思い、同年八月から昭和五五年六月までニユージーランドへ留学した。

そして、同人は本件選考試験を受験するため、願書受付期間中である昭和五六年六月二四日郵送で本件選考試験願書を愛知県教育委員会に提出した。ところが、同月二六日愛知県教育委員会は同人に対し電話により愛知県では日本国籍を有する者しか受験できないから願書を返送する旨通知してきた。そして、同人は同月三〇日、右返送された願書を受け取つた。

三 被保全権利について

1 国籍要件と在留外国人の人権

日本国籍を有しない在留外国人に憲法上の基本的人権の保障が及ぶことは判例学説が認めるところである。すなわち、いわゆるマクリーン事件上告審判決は「憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、わが国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものと解すべきである」(最判昭和五三年一〇月四日大法廷、民集三二巻七号一二二三頁)と判断しており、学説上も、多数説は参政権などは権利の性質上外国人に保障されないことは明らかであるが、法の下の平等、各種の精神的自由、身体的自由、経済的自由、財産権、手続の保障などは外国人にも保障が及ぶと解している(橋本公亘「憲法(改訂版)」八七頁参照)。そして、右の憲法の趣旨を前提として職業安定法第三条は「何人も、人種、国籍……等を理由として、職業紹介、職業指導等について、差別的取扱を受けることがない」旨規定し、昭和四九年九月わが国が加入した国際人権規約のA規約第六条は「すべての者が自由に選択し又は承認する労働によつて生計を立てる機会を得る権利」を保障しているのである。

以上のように在留外国人に憲法上保障されている基本的人権も合理的理由に基づいて制限することは必ずしも許されないわけではなく、現に、外国人の職業選択の自由については、公証人法、鉱業法、銀行法等により、財産権についても、外人財産取得法、外人土地法、海運法等により制限されているのである。なお外国人の就官能力については唯一外務公務員法第七条に制限規定が設けられている。

しかし、外国人に保障されている基本的人権を制限する場合、法治主義の原則からいつて、法律による制限でなければならず、行政機関が法的根拠なしに勝手に行うことは許されないことは当然のことである。

さて、愛知県教育委員会が実施する本年度の公立学校教員採用選考試験において、その募集要項によれば、日本国籍を有することが受験資格要件とされており、在留外国人が右選考試験を受けることにより公立学校の教員になることを不可能にしている。これは、在留外国人の法の下の平等、職業選択の自由を制限するものであることは明らかである。したがつて、右選考試験の受験資格を日本国籍を有する者に制限する右愛知県教育委員会の扱いについては、法律上の根拠がなければならないはずである。しかるに、教員免許状授与の欠格事由を定める教育職員免許法第五条、地方公務員の欠格事由を定める地方公務員法第一六条、教員の欠格事由を定める学校教育法第九条のいずれにも日本国籍を有しない者を欠格にする定めはなく、他に日本国籍を有しない者から右選考試験の受験資格を奪うことを根拠づける法律、条例上の規定は存しない。現に、日本国籍を有しない者にも教員免許状は授与されており、東京、大阪、京都、神奈川、三重等の数多くの教育委員会は教員採用選考試験の受験資格として国籍条項を設けておらず、多くの日本国籍を有しない在留外国人―ほとんどが韓国、朝鮮籍の者―が右選考試験を受け教員として採用されているのである。

したがつて、愛知県が本年度の公立学校教員採用選考試験の受験資格を日本国籍を有する者に限つている扱いは何ら法律に基づかず、憲法上認められている在留外国人の法の下の平等、職業選択の自由を侵害するものであり、法治主義の原則に違反する違憲、違法な行政措置であるといわざるをえない。

2 教育の非権力性と外国人の教育公務員適格性

(一) 外国国籍を有する者の公務員登用を制限する法理としてしばしば語られるものに、公務員が「公権力の行使」又は「公の意思形成に参画」することの特殊性をあげるものがある。衆議院議員上田卓三提出の質問主意書に対する内閣総理大臣の答弁(昭和五四年四月一三日答弁第一三号)は「公務員に関する当然の法理として、公権力の行使又は公の意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには日本国籍を必要とするが、それ以外の公務員となるためには必ずしも日本国籍を必要としないものと解している。このことは国家公務員のみならず、地方公務員の場合も同様である」とし、地方公務員が右の「公権力の行使」又は「公の意思の形成への参画」にたずさわる公務員であるかどうかは「地方公務員の任用にかかる職の職務内容を検討して、当該地方公共団体において具体的に判断さるべき」だとしている。

当該公務員の担当する職務の内容と性質が右判断の核心となるであろう。

(二) ところで、公立学校の教員たる地方公務員は、いかなる意味においても「公権力の行使」又は「公の意思の形成に参画」するものでないことは明白である。

学校教育は子どもの学習権を保障する人間教育であり、人間の健全な発達を目的とする文化的活動を本質とするから、権力的な作用とは全く無縁である。最高裁学力テスト事件判決(昭和五一年五月二一日、判例時報八一四号三三頁)も「憲法二六条の背後には、国民各自が一個の人間として成長、発達し、自己の人格を完成、実現させるために必要な学習をする固有の権利を有すること、特に子どもはその学習要求を充足するための教育を自己に施すことを大人一般に対して要求する権利を有するとの観念が存在していると考えられる。換言すれば、子どもの教育は、教育を施す者の支配的権能ではなく、何よりもまず、子どもの学習をする権利に対応し、その充足をはかりうる立場にある者の責務に属するものとしてとらえられているのである」としているのである。

教育基本法二条が「教育の目的は、あらゆる機会・場所において実現され、このためには学問の自由を尊重し、自発的精神を養い、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない」と定め、同法一〇条が教育と教育行政を分離し、教育が不当な支配に服することなく国民全体に対して直接に責任を負つて行なわれなければならないとしたのは、いずれも教育の非権力性の原理を直接・間接に宣明したものと理解しうるのである。

(三) このように教育は「公権力の行使」ではあり得ないし、「公の意思の形成に参画」することでもないと云わねばならない。このことは教育基本法六条が「法律に定める学校は、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる」とし、学校教育法二条が私立学校たる学校法人に学校の設置を認め、義務教育を含めた学校教育活動を為すことを法認していることからも裏付けされる。法律に基づく私立学校は国公立学校と同質のものとみなされるのである。

文化をになう国民による私学設置の自由と国民の私学選択の自由は、本来教育の自由権的性格に由来するものであり、子どもの個性と多様な人間的成長の要求に見合う私学教育の自由は、学習権保障のために重要不可欠なものとして前提されてきているのであつて、経済的・社会的および文化的権利に関する国際規約(いわゆる国際人権規約A規約)一三条において「教育機関を設定し、運営する個人および団体の自由」として確認され、前記学力テスト事件判決も「私学教育の自由」を認めているのである。

若し教育活動が「公の意思の形成に参画」することであるとすれば、それは右にみたような私学教育の自由が憲法的基盤をもつた自由権として保障されることと抵触するのであるし、私学教育の自由を保障している我法制のもとにあつては、教育は「公の意思の形成」とは何らの係り合いのないものであることが明らかである。

(四) また、教員の資格に関する事項は原則として法律で定めるものとされ(学校教育法八条)、教育職員免許法三条一項は「教育職員は、この法律により授与する各相当の免許状を有する者でなければならない」として、免許状を有することを教員の資格要件としているのである。ところが同法は日本国籍を有することを免許状授与の要件としていないのであるから、同法は外国人たる者が教育職員となることを是認しているものと解しなければならないし、現実にも申請人らは免許状を交付されている。「教員は全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」と規定する教育基本法六条によつて、教員の全体奉仕者性が明確にされている法制のもとで、外国人教員を法認することは、およそ教員が「公権力の行使」、「公の意思の形成」と無関係であることの証左である。

(五) 新聞報道によると被申請人は教育の非権力性を認めながら、「校長・教頭などの管理職は『公の意思形成』に一部参画するし、一般教員についても将来管理職になること、また生徒の処分などで『公の意思形成』にかかわる場合があると解釈している」ので、国籍条項を外すことはできないと述べていることが窺われる。

しかしながら、右の解釈はいずれも甚しく失当であつて、到底是認される余地のないものである。

まず学生・生徒への処分が「公の意思形成」であるとする点についてであるが、国公立学校の在学関係を「特別権力関係」と把握する考え方は学説・判例を通じて現在では消滅し去つたと評しても過言ではない。京都府立医大退学処分事件に関する最高裁第三小法廷判決(昭和二九年七月三〇日、民集八巻七号三〇頁)は、国公・私立大学を問わず懲戒処分が「教育施設の内部規律を維持し、教育目的を達成するために認められる自律的作用」であると判示して、「特別権力関係」の表現を避けており、さらには富山大学単位不認定事件に関する最高裁第三小法廷判決(昭和五二年三月一五日、判例時報八四三号二二頁)では、国公・私立大学は学生の教育と学術の研究を目的とする教育研究施設であつて、その設置目的を達成するために必要な事項については自律的・包括的権能を有し、一般市民社会と異なる特殊な部分社会を形成しており、右特殊な部分社会である大学における法律上の係争のすべてが司法審査の対象となるものではないとして、特別権力関係論が唱えていた司法審査の制限を部分社会の法的自律性によつて新たに裏づけたのである。

現在の教育法学の到達した通説的見解は、国公立学校在学関係は、私学の在学関係と本質を同じくする在学契約関係であるとしているが、その根拠は次の点に求められる。

すなわち、在学関係の基本にかかわる学校制度的規定を定める教育基本法・学校教育法が、国公・私立を問わずすべての法律上の学校にひとしく適用されること、在学関係は子どもの人間的成長発達権たる学習権を保障する法律関係であつて、学校設置者の側に公教育遂行に関する義務性が強いとともに、生徒・保護者側に教育要求権をはじめ権利主体性が高められており、両者の間には対等な権利義務関係が存在すること、子どもの学習権を保障する学校教育は教育を施す者の支配的権能ではなく教育の非権力性の原理が妥当しており、教育的懲戒にみられる優越的意思も私学におけると同様権力関係とみることはできないこと、学校当局に認められる一定範囲における教育上の包括的決定権能も、私学の在学関係と共通するそれであつて、生徒・保護者との基本的な合意にもとづく学校の教育自治関係であることである(兼子仁著新版「教育法」四〇五頁以下)。

(六) 在学関係を右のようにとらえることをふまえたうえで、生徒への処分、及び「管理職」の職務内容を検討すれば、これらが「公の意思形成」への参画と評価されるものでないことは一層明らかとなる。

学校教育法一一条は「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる」と定めているが、まず教員のなす懲戒は校長(実質的には学校の職員会議で審議決定することは後述のとおり)が行う懲戒処分としての退学、停学、訓告とは区別された、事実上の懲戒に限られるのであり、退学等の懲戒処分は教員がなすことはできないとされていることである(学校教育法施行規則一三条二項参照)。

叱責、起立、居残り、作業の指示といつた事実上の懲戒は、専ら教育目的のために行使されるものであり、教育権の一環として、生活指導のなかに教育専門的に位置づけられて、児童・生徒等の人間的成長と学習権を保障するように行なわれるものである。同施行規則一三条一項が「懲戒を加えるにあたつては、児童等の心身の発達に応ずる等教育上必要な配慮をしなければならない」と規定しているのは、まさに右趣旨を法文化したものである。教員のなす懲戒は、国公立学校の場合権力的関係に基づくものでは決してなく、国公立・私立学校を通じて在学契約に示された学校教育をうけるという基本的合意にもとづくものであり、教育の一環として児童等の人間的成長のための指導であつて、「公権力行使」ないし「公の意思形成」の観念を容れる余地は全くないと云わねばならない。

校長のなす懲戒処分は、生徒等の在学関係上の地位や権利を左右するという法的効果を伴う法的行為である点において、前記事実上の懲戒と異るが、これを除けばその性格において何ら異るところはない。

国公立学校の学生・生徒に対する懲戒処分については抗告訴訟が活用され、退学処分等については判例はその行政処分性を肯認してはいるが、これはもつぱら学生側の権利救済の便宜のためであつて、近年の判例・学説はこれを「形式的行政処分」論として構成していることは周知のとおりである。校長が学生等への懲戒処分の権限をもつことから、「公の意思形成参画」ないし「公権力の行使」に係る公務員であるとするならば、それはあまりにも教育の非権力性をみすごした論理との批判は免れないであろう。

(七) 次に校長・教頭が「公の意思の形成」に一部参画するとの被申請人の見解についてであるが、校長は行政法的意味における「管理職」ではない。学校教育法二八条三項は「校長は校務をつかさどり、所属職員を監督する」と定める。この校務とは学校が全体としてなすべき仕事すなわち全校的学校業務を指称し、教師の教育活動は含まないと解されている。全校的学校業務は各学校が自治的に決定すべき事項であるが、その校務をつかさどること及び職員の監督の意義内容が問題となるが、これを教育内的事項と教育外的事項に分けて考察するのが適切である。

学校の教育過程編成、指導要録作成、教育校務分掌、生徒懲戒処分など全校的教育事項の審議決定権は職員会議に属するものであり、校長はそれへの指導助言的参加と対外的代表・表示を行うことが、教育事項に関する校務をつかさどることの内容である。また各教師の教育活動の内容に関しては、校長は教育専門家としての指導助言をなすことができ、それが教育面において職員を監督することになるのである。各教師の教育活動の内容に関して、上下の関係にもとづく職務命令(法的拘束力ある指揮監督)を発することができないとされているのは、教育基本法一〇条一項の禁ずる教育への「不当な支配」に該当するからである。

教育外的事項で法律によつて校長の権限として規定されているものは、教師の校外自主研修の承認(教育公務員特例法二〇条二項)、教職員の任免その他の進退に関する意見の任命権者若しくは市町村教育委員会への具申(地方教育行政の組織及び運営に関する法律三六条、三九条)があるが、これらは学校の教育過程編成や教育校務分掌に直接の人的影響を及ぼすものであるがゆえに、教育内的事項と密接な関係を有しているのであつて、学校自治的運営に係わるものとして「公の意思形成への参画」とみることはきわめて困難である。教育財産の管理は教育委員会の権限とされているが、学校施設、設備の運用・保存は学校教育活動の直接的支えであるから、これをもつて「公の意思形成への参画」とみることは、これまたできないと云わねばならない。

(八) 右にみてきたように、校長は本来教育自治的学校運営のための教育専門職であつて、行政職ではなく、行政組織における管理職とはその性質を大きく異にするものであつて、「公の意思形成に参画」するというような職務権限は法律上の根拠を到底見出すことはできないのであり、校長を補佐する教頭も全く同様に「公の意思形成に参画」するものでは断じてないのである(学校教育法二八条四項参照)。

(九) 百歩譲り、仮に校長・教頭が何らかの「公の意思の形成に参画」することがあり得るとしても、その一事をもつて公教育活動というそれ自身全く権力的性質を有しない職務に従事する教員に外国人登用の門戸を閉ざすことは一片の合理性もない。多数の教員が存在するなかで校長・教頭の地位に就く者は極く僅かであり、教員となつた者が全て校長・教頭になるわけのものではない。しかも校長・教頭の資格は法律で定められているのであり、何人を校長・教頭に就けるかは、行政機関たる教育委員会が教育行政の見地から裁量をもつて選択するのであるから、外国人教員が校長・教頭の職務に就くことによる重大で明らかな障害が生ずる充分な根拠があれば、右裁量にあたつて右事情を考慮すれば足るはずである。右のような障害が生ずることを認めるに足る事情がないのに、一律的に外国人に教育公務員への道を閉すことは、著しく不合理であり、職業選択の自由に対する重大な侵害であると云わなければならない。

3 在日朝鮮人の特殊性とその人権状況

(一) 在日朝鮮人の特殊性

(1) 強制連行された人々とその子孫

昭和五四年度の在日外国人の数は約七七万人、その内韓国籍・朝鮮籍の者(以下在日朝鮮人という)は約六六万人、在日外国人の八五・五パーセントを占めている。

在日朝鮮人が多数在留しているのは、日本の朝鮮統治に起因している。日本は明治四三年に朝鮮を併合しこの状態は昭和二七年サンフランシスコ平和条約において朝鮮に対する権利を放棄するまで続いた。朝鮮併合の前年、明治四二年の在日朝鮮人数は七九〇人にすぎなかつたが、終戦時には二〇〇万人以上が在留し、ところが戦後一年足らずの間にその約四分の三が本国に帰還した。このことが在日朝鮮人渡日の不正常さを物語つている。在日朝鮮人は旅券をもつて渡航した一般外国人とは全く異質な存在であり歴史的にも日本の責任に由来する人々である。

この間の消息は昭和四〇年の日韓法的地位協定に明らかである(同協定は日本と朝鮮全土との間に締結されたものでないという問題を含んでいるが、そこで示される精神は韓国籍と朝鮮籍とで異なるものではない。以下この趣旨は日本と大韓民国との条約、あるいは協定永住権者に関する定め等の関係で同様である。)その前文は「日本国及び大韓民国は多年の間日本国に居住している大韓民国国民が日本国と特殊な関係を有するに至つていることを考慮し、これらの大韓民国国民が日本国の社会秩序の下で安定した生活を営むことができるようにすることが、両国間及び両国民間の友好関係の増進に寄与することを認めて、次のとおり協定した」と記されている。

(2) 国籍のはく奪

今日在日朝鮮人は日本国籍を有しないが、それは当然なことではなかつた。朝鮮人は日韓併合以来帝国臣民として扱われて来た。敗戦時ドイツ連邦共和国はオーストリアを併合していたが、在独オーストリア人につき、一旦はドイツ国籍を消滅させるも併せて意思表示によつてドイツ国籍を回復する権利を認めた。このことと朝鮮人国籍の処理は極めて対照的である。第一次大戦後のベルサイユ条約以降、領土の変動に伴う国籍の移動については、国籍選択権を保障するのが通例となつており、世界人権宣言一五条二項は何人もほしいままに国籍を奪われることはないと定め、わが国はこれを受けた平和条約前文に「世界人権宣言の目的を実現するために努力し」と謳いながら国籍選択権は与えられなかつた。

朝鮮人は「戦後平和条約の発効によつて自己の意思にかかわりなく日本国籍を喪失した」(最高裁判所昭和五三年三月三〇日、被爆者手帳交付申請事件)それは条約法律上の明文によるものではなく、ただその旨の政府見解が表明されたことによるものにすぎなかつた。

(3) 特殊な地位

かくて、平和条約発効に伴い朝鮮人は「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」(昭和二七年法一二六号)によつて一般外国人と異なる在留を認められ、昭和四〇年日韓法的地位協定及び「日韓法的地位協定に基く出入国管理特別法」によつて協定永住権が認められた。

(二) 外国人の基本的人権擁護の動向

(1) 国際的動向

以上の次第で在日朝鮮人はその歴史性特殊性から一般外国人と同様に考察されるべきではないが、日本国籍のない事実の限りで外国人としてもこの基本的人権の擁護が強く要請されるのが国際的動向である。

昭和二〇年国際連合憲章は前文で「……基本的人権と人間の尊厳及び価値……に関する信念をあらためて確認し……」と謳い、一条三項において人種、言語等の差別なくすべての者のために人権及び基本的自由を尊重することの必要を説いた。

昭和二三年これを受けた世界人権宣言前文においてわが国はこうした人権の尊重、遵守の促進を達成すべく誓約し、二条一項、七条においてすべての人にあらゆる差別を排除して平等な保護を受ける権利を確認した。

昭和五一年アメリカ合衆国最高裁判所はその一九七六年六月一日のHamton|V.|Mow Sung Wong|事件判決において米国に適法に居住を許されている外国人からあらゆる種類の連邦公務員への就職の機会を連邦人事委員会の規則により奪うことは、適法手続によらずして住民の自由を奪うことになつて許されないと述べた。

昭和五四年九月わが国は国際人権規約を批准した。この規約は一九六六年(昭和四一年)国連総会で採択され、一九七六年(昭和五一年)発効しており、ようやくにして国内での適用をみたものである。そこでは内外人平等主義の原則が高く掲げられている。

(2) 日本における動向

昭和二一年国際的動向をふまえながら憲法が公布された。人権規定が外国人にも保障を及ぼすことは判例となつた。

昭和二七年平和条約発効に伴い在日朝鮮人に特殊な在留が認められた(前述)。

昭和四〇年日韓法的地位協定等は、在日朝鮮人発生の歴史的由来の正しい認識のうえに協定永住権を認めた。

昭和五〇年その資金を国庫に依存するところの日本育英会は「現在わが国に在留する朝鮮人の多くは、過去十数年間にわたるわが国の政策の結果として来日することを余儀なくされ、以来社会的、経済的、文化的に低位のまま放置され、苦しい生活を続けて来ている実状にある。このような歴史的経緯と現状」認識のうえ、出願資格を在日朝鮮人に拡大した。

昭和五五年四月国民金融公庫の外国人貸付が実施されることになつた、その大蔵省通達は「国際人権規約が批准されたこと等にかんがみ」と情勢を認識している。

同月住宅金融公庫の貸付申込資格等が朝鮮人に拡大された。その大蔵省銀行局長等の通達はいう「諸般の情勢にかんがみ、外国人であつても日本国において永住する地位を与えられた者等について、原則として、日本国民に準じて取り扱うことが望ましいと考える。」

同じく日本住宅公団建設住宅の賃貸等、公営住宅の賃貸等についても建設省住宅局長等通達により朝鮮人に門戸が開かれた。

これらは国民金融公庫法、住宅金融公庫法、公営住宅法、日本住宅公団法等いずれも明確な国籍制限がないが、あつても「国民大衆」の語があるだけの法律下で業務方法書、入居者の募集規定などの運用上国籍制限が実施されてきたもので右各通達以前にも一都二十数県では公営住宅への入居を認めていたものである。

昭和五二年三月司法試験に合格したが司法修習生としての採用選考を一旦は拒まれた朝鮮人金敬得が採用されるに至つた。弁護士法、司法修習生に関する規則上国籍要件は定められていないのであつた。

(三) 朝鮮人の教員採用の動向

(1)イ 大阪府等。大阪府、大阪市では昭和四〇年翌四一年に十数名の朝鮮人が教員として採用された。国籍要件はない。

ロ 東京都。昭和四九年に国籍要件が撤廃され、昭和五五年までに二名が採用され、更に本年四月新たに二人が採用されて教壇に立つている。

ハ 三重県。昭和五二年国籍要件を撤廃し、昭和五五年、五六年と続けて一人づつが採用されている。

ニ 兵庫県。昭和五六年国籍要件が撤廃された。これ以前にも一名が採用されている。

ホ 滋賀県。本年国籍要件が撤廃され、一名が採用された。

(2) その他尼崎市では教員採用二名がある。

更に、一般事務職として尼崎市、西宮市で採用され、北摂七市と阪南八市では職員採用に国籍要件が撤廃されている。

愛知県では非常勤講師としては現在三名が採用されている。

(3) 在日朝鮮人は大阪、東京、兵庫、愛知、京都、神奈川の順に多いが、国籍要件を残すのは愛知県のみである。

(四) 申請人らの権利

申請人両名は戦前に渡日した朝鮮人の二世である。小学校、中学校と日本国籍を有する者と同様に机を並べて学び、しかしある日在日朝鮮人と知ることを強いられてきたのである。両親等を含めてその生活基盤は強く日本社会に根差しており、今後ともこのことは変らない。日本国籍の者と異なるのはただ、申請人の父らは朝鮮併合下で渡日し、日本人として扱われてきたにも拘らず生前両親が国籍を奪われた事実があるにすぎない。

教員採用に関し、それが基本的人権、自由に属する職業選択の自由、法の下の平等の問題である限り国籍制限の法律の明文のないところに国籍制限はない。基本的人権尊重から内外人平等主義への国際的潮流の中で、法律によらない制限はありえない。国家にこれを実現する責務がある以上、教員採用は地方自治体の裁量たるを許さない。朝鮮人の教員採用が公共の福祉に反しないことは、多くの採用の実例が何よりも雄弁である。憲法のうたう国際協調主義、これを受ける教育基本法、学校教育法の国際協調精神の涵養にとつて、在日朝鮮人の教員採用が何の支障を生ずるであろう。

四 保全の必要性

申請人らは被申請人に対し、現在昭和五七年度愛知県公立学校教員採用試験を受けるべき地位にあることの確認を求めて本訴を提起すべく準備中である。しかし、被申請人は既に受験願書を返送して来ており、担当課員が国籍を理由に受験できぬ旨発言するなどして、このままでは来たる七月二一日、二二日に施行される本件試験を受けることができないこと明らかである。かくては、本訴を提起して勝訴判決を得ても、右判決は画餠にすぎず、申請人らが回復し難い重大な損害を蒙ること明らかである。

よつて申請の趣旨記載の仮処分命令を申請する。

別紙〈省略〉

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